モハメドアリの逝去と、全盛期を知らない寂しさ

アリが亡くなった。
このニュースの配信は
多くの人の希望や夢を奪ったことだろう。
享年74。

五十代前半の私は、アリの全盛期を知らない。
アリをみたのは、猪木との茶番が最初。
もちろん名声は知っていた。
その次にみたのが、マイケルスピンクスだかレオンスピンクスだったかに負けた試合。
後にタイソンがスヒンクス兄弟の弟を葬り去ったとき、快哉を叫んだ記憶が残っている。

キンシャサの奇跡、言葉では知っているし、ビデオもみたが、結果を知っているし、感動はライブとはほど遠かった。
沢木耕太郎の一瞬の夏を読んだとき、キンシャサの奇跡を生で見られなかった悔しさを覚え、時代を背負うヒーローと同じ時を共有できないはかなさが身にしみた。
私は長嶋の全盛期も知らない。
私が知っている長嶋は、チャンスに打てず苦悩する長嶋。

いま、私はジェイスポーツと契約し、世界の主だったスポーツをライブで観ることが出来ている。
経済的な観点で言えば贅沢とのそしりを免れないが、ヒーローの全盛期を知りたいという欲求が何よりも勝るのだ。
そしてホンモノを子どもに見せたいという欲求。

その欲求の源にある一番大きなものがキンシャサの奇跡である。
次が江川、高校三年生のセンバツ初戦北陽高校戦でみせたストレートのすごさ。
あれは、野球のボールではなく、ドッジボールがバッターを襲うぐらいの衝撃だった。
アリがなくなったことに対して、我が子はなんの感慨も示さないだろう。
時代といってしまえばそれでいいのかもしれない。
しかしこれだけ通信網が発達しても、世界中の誰もが知るヒーローがいない現在、アリの逝去になんの感慨も覚えない若者が多いことが残念でならない。
その死が世界的に報道されるのは、カールルイス、マイケルジョーダン、マイクタイソンぐらいかなあ。
残念ながら、ラグビーではいないなあ。